どうも、サッカー大好きおっさんのじょのれんです。
今回紹介する伝説のサッカー選手はセルビアの【ドラガン・ストイコビッチ】です。
Embed from Getty Images「 ドラガン・ストイコビッチはどんな選手?」
「ドラガン・ストイコビッチのエピソード教えて!」
と思っていただいたあなたへお届けします。
「 ドラガン・ストイコビッチはどんな選手?」
「ドラガン・ストイコビッチのエピソード教えて!」
と思っていただいたあなたへお届けします。
ちょいちょいぼくのエピソードも混じっていますが、お付き合いいただければ幸いです。
いきなりですが【ドラガン・ストイコビッチ】にキャッチフレーズをつけます。
ピッチの妖精
「日本に生まれて良かったぁ」
なぜこのキャッチフレーズをつけたのか【ドラガン・ストイコビッチ】のすごいぞポイント3つを軸に語っていきますので、しばしお付き合いください。
いち早く実際のプレー動画を見たい皆様はこちらからどうぞ。
プレーを見た後で良いので、記事を読んでいただければ幸いです。
- プレースタイル「ファンタジスタ」
- オシムとワールドカップ
- 名古屋グランパスのレジェンド
選手プロフィール
- 名前:ドラガン・ストイコビッチ
- 国籍:セルビア
- 生年月日:1965年3月3日
- 身長・体重:175cm73kg
- 利き足:右足
- ポジション:MF(ミッドフィルダー)、FW(フォワード)
- 主な所属チーム:ラドニチュキ・ニシュ、レッドスター・ベオグラード、名古屋グランパス
- 代表歴:84試合(15得点)
- ワールドカップ出場:1990年、1998年
1981-1986 | ラドニチュキ・ニシュ | 70 | (8) |
1986-1990 | レッドスター・ベオグラード | 120 | (54) |
1990-1994 | オリンピック・マルセイユ | 29 | (5) |
1991-1992 | → エラス・ヴェローナ(loan) | 19 | (1) |
1994-2001 | 名古屋グランパスエイト | 184 | (57) |
出会い
【ドラガン・ストイコビッチ】との出会いは、名古屋グランパスに入団した1994年にさかのぼります。
名古屋グランパスには鳴り物入りでイングランドの【ギャリー・リネカー】が入団しましたが、あまり活躍した記憶がありません。
唯一記憶に残っているのが、【リネカー】は現役時代レッドカードはおろかイエローカードすらもらわなかったというエピソードです。
当時のJリーグの審判も気を使ったのではないかと思います。
そんな【リネカー】最後の年の1994年に【ストイコビッチ】が入団し、出会いました。
Embed from Getty Imagesすごいぞポイント3つ
プレースタイル「ファンタジスタ」
【ドラガン・ストイコビッチ】のプレースタイルは「ファンタジスタ」です。
攻撃のあらゆる才能を高次元で持っています。
ドリブル、パス、シュート。
雨の日のドリブルは伝説となっています。
Jリーグが始まった1994年当時の日本のグラウンド状況は正直言って、まだまだ良くありませんでした。
芝がはげたり、でこぼこしていたりする部分もあり、水はけもよくありませんでした。
1994年9月17日の対ジェフユナイテッド千葉との試合はグラウンドに水たまりができるほどでした。
普通にドリブルすれば、ボールが転がらないと判断した【ストイコビッチ】はリフティングしながらドリブルします。
もちろん走りながらです。相手もいますがおかまいなしです。
類まれな体幹とテクニックがないと出来ない芸当です。
このときが【ストイコビッチ】が【リネカー】にかわりグランパスのアイコン(象徴)になった瞬間です。
パスやシュートは後ほど語ります。
Embed from Getty Imagesオシムとワールドカップ
【ドラガン・ストイコビッチ】はJリーグに来る前の1990年にワールドカップに出場しています。
「イビチャ・オシム監督」が指揮していた東欧のブラジル「ユーゴスラビア」代表でした。
【デヤン・サビチェビッチ】や【ロベルト・プロシネツキ】など「ファンタジスタ」のオールスターです。
このときは僕自身はまだワールドカップを見ていなかったので、のちに見ることとなります。
グループリーグ初戦では優勝するドイツに負けますが、【カルロス・バルデラマ】ようするコロンビア、UAEに連勝しグループリーグを突破します。
【バルデラマ】に興味のある皆様は下記記事をご覧ください。
そして、ベスト16で対スペイン戦にて【ストイコビッチ】が輝きます。
2点決めるのですがどちらのゴールも【ストイコビッチ】の技術が集約された珠玉の一品です。
1点目はセンタリングに対してダイレクトボレーを打つと見せかけて、足元にピタッと止めるトラップを繰り出します。
シュートを決めた後にオシム監督と一緒に無邪気に喜びます。
今見てもうっとりするトラップです。時が止まります。
下記記事の3人にも引けをとりません。
2点目はフリーキックです。
1点目のスーパーゴール後にスペインに追いつかれるのですが、延長戦でフリーキックを得ます。
【ストイコビッチ】の右足から放たれた一撃は壁を超え、カーブを描きゴール隅に吸い込まれます。
準々決勝では【ディエゴ・マラドーナ】率いるアルゼンチンにPK戦の末に敗退するのですが、違う未来も見たかったです。
Embed from Getty Images名古屋グランパスのレジェンド
【ドラガン・ストイコビッチ】を「名古屋グランパスのレジェンド」といって異論を唱える人は一人もいないでしょう。
【ストイコビッチ】は1990年に「レッドスター」からフランスの「マルセイユ」に鳴り物入りで入団します。
当時の「マルセイユ」はフランスリーグ2連覇中でフランスリーグ屈指の強豪で、【ジャン・ピエール・パパン】や【エリック・カントナ】が所属していました。
そんなメンバーを抑えて【ストイコビッチ】はエースナンバー10を与えられるので、期待の高さが伺えます。
しかし、移籍直後に【ストイコビッチ】は選手生命に関わるほどの大怪我をします。左膝です。
そしてさらなる不幸が【ストイコビッチ】を襲います。
ユーゴスラビアの内戦です。
内戦について国連が制裁措置を取り、ユーゴスラビア代表はユーロ1992の出場停止処分を受けます。
皮肉にも代替出場の【ピーター・シュマイケル】や【ブライアン・ラウドルップ】が主力のデンマークが優勝します。
【エリック・カントナ】【ピーター・シュマイケル】に興味のある皆様は下記記事をご覧ください。
運命の歯車はいつでも突然回ります。
クラブチームでも代表でも悲嘆にくれていた【ストイコビッチ】に名古屋グランパスが声をかけます。
7ヶ月分の給料として【ストイコビッチ】に5千万円、マルセイユへの移籍金として9千万円を支払います。
現代の移籍事情とは違いますが、逆の意味で破格の契約です。安すぎるという意味で。
さらに7ヶ月で退団する予定が「アーセン・ベンゲル監督」就任によって、【ストイコビッチ】は契約を延長します。
当時の「ベンゲル監督」はストイコビッチも所属していたフランスリーグのASモナコで智将として知られていました。
【ティエリ・アンリ】【ダヴィド・トレゼゲ】【リリアン・テュラム】【ジョージ・ウェア】など教え子を数え始めたらきりがありません。
【アンリ】【トレゼゲ】【テュラム】【ジョージ・ウェア】に興味のある皆様は下記記事をご覧ください。
そして【ストイコビッチ】は怪我の日々から脱却し、第二次黄金期をヨーロッパではなくベンゲル監督率いる名古屋グランパスで迎えます。
特にレフティモンスターの【小倉隆史】、レフティボンバー【平野孝】、スーパーサブ【森山泰行】の攻撃陣を華麗なパスで操れます。
特にダイレクトパスは、相手が思いもよらないタイミングで出すためチャンスに直結します。
Jリーグでの優勝には一歩届きませんでしたが、天皇杯のタイトルを2回、年間最優秀選手を1回受賞していません。
ちなみにオールスターMVP3回受賞は最多です。
【ストイコビッチ】が華のある選手であり、どんな大会でも手を緩めない選手であることの証明です。
Embed from Getty Imagesまとめ
いかがでしたでしょうか。
【ドラガン・ストイコビッチ】が偶然の導きで名古屋グランパスに来てくれて、日本でプレーしてくれて感謝します。
怪我をしなければ、ユーゴスラビアに内戦がなければ、違う未来があったかも知れません。
しかし、日本での時には熱く、時にはクールに、時には遊び心満載な【ストイコビッチ】のプレーは一生忘れないでしょう。
「日本に生まれてよかったぁ!」
【ドラガン・ストイコビッチ】の魅力がうまく語れたかはわかりませんが、なつかしさや興味がわいた皆様は、実際のプレーをみていただければ幸いです。
次回予告
次回は【ホセ・ルイス・チラベルト】です。
お楽しみにしてください、またね。
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