どうも、サッカー大好きおっさんのじょのれんです。
今回紹介する伝説のサッカー選手はイタリアの【ジャンルカ・ヴィアッリ】です。
Embed from Getty Images2023年1月6日に58歳の若さで亡くなり、謹んでお悔やみ申し上げます。
「 ジャンルカ・ヴィアッリはどんな選手?」
「ジャンルカ・ヴィアッリのエピソード教えて!」
と思っていただいたあなたへお届けします。
ちょいちょいぼくのエピソードも混じっていますが、お付き合いいただければ幸いです。
いきなりですが【ジャンルカ・ヴィアッリ】にキャッチフレーズをつけます。
不撓不屈の精神
「イタリアのピッチに置いてきた」
なぜこのキャッチフレーズをつけたのか【ジャンルカ・ヴィアッリ】のすごいぞポイント3つを軸に語っていきますので、しばしお付き合いください。
いち早く実際のプレー動画を見たい皆様はこちらからどうぞ。
プレーを見た後で良いので、記事を読んでいただければ幸いです。
- マンチーニとのゴールデンコンビ
- ユベントスのチャンピオンズリーグ優勝
- チェルシー復活の立役者
選手プロフィール
- 名前:ジャンルカ・ヴィアッリ
- 国籍:イタリア
- 生年月日:1964年7月9日
- 身長・体重:180cm77kg
- 利き足:右足
- ポジション:FW(フォワード)
- 主な所属チーム:サンプドリア、ユベントス、チェルシー
- 代表歴:59試合(16得点)
- ワールドカップ出場:1986年、1990年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ジャンルカ・ヴィアッリ
年 | クラブ | 出場 | (得点) |
1980-1984 | クレモネーゼ | 113 | (25) |
1984-1992 | サンプドリア | 328 | (141) |
1992-1996 | ユヴェントス | 145 | (53) |
1996-1999 | チェルシー | 88 | (40) |
通算 | 674 | (259) |
出会い
【ジャンルカ・ヴィアッリ】との出会いは、1994年ワールドカップ後です。
イタリア代表の【ロベルト・バッジョ】が悲劇の英雄となり、キング【カズ】がセリエAに移籍した時でした。
友達がWOWOWに加入しており、深夜に一緒にユベントスの試合を見ているときに、【バッジョ】の相棒として【ジャンルカ・ヴィアッリ】がいました。
1990年代はイタリアのプロリーグ「セリエA」が世界最強リーグとされており、おりしも【カズ】選手が日本人初挑戦したのが1994年です。
そんな中、フジテレビで「セリエAダイジェスト」が始まりWOWOWで見れない試合も見れることとなります。
トヨタカップなど単発的に世界のサッカーに触れることはありましたが、毎週世界のサッカーに触れることができ、日本中のサッカーを見る目が養われたと思います。
【ロベルト・バッジョ】に興味のある皆様は下記記事をご覧ください。
Embed from Getty Imagesすごいぞポイント3つ
マンチーニとのゴールデンコンビ
【ジャンルカ・ヴィアッリ】を語る上で欠かせないのは【ロベルト・マンチーニ】です。
イタリア代表監督としてユーロ2020を制覇します。
【ヴィアッリ】と【マンチーニ】が所属していた「サンプドリア」は、二人が来る前は中堅チームで優勝とは程遠いチームでした。
1981-1982年シーズンまで2部リーグのセリエBでした。
セリエAに昇格した1982-1983年シーズンに【マンチーニ】が加わり、1984-1985年に【ヴィアッリ】が加わります。
コンビ結成1年目の19984-1985年シーズンでいきなり結果を残します。
イタリアの国内カップの「コッパ・イタリア」優勝です。
柔の【ロベルト・マンチーニ】と剛の【ジャンルカ・ヴィアッリ】は相性抜群で特にカップ戦では無類の力を発揮しました。
二人が同時にサンプドリアに所属していた8シーズンのコッパ・イタリアの成績は優勝3回、準優勝2回です。
当時のセリエAには【ミシェル・プラティニ】のユベントス、【ディエゴ・マラドーナ】のナポリ、オランダトリオ【マルコ・ファン・バステン】【ルート・フリット】【フランク・ライカールト】のACミランなど伝説的なチームがいたのにも関わらずです。
ヨーロッパ全体のカップ戦優勝チームが集まる「カップウィナーズカップ」も1989-1990年シーズンに獲得しています。
そして【ヴィアッリ】【マンチーニ】の二人の悲願を達成するときが来ます。
1990-1991年です。
「サンプドリア」はリーグ戦で快進撃を繰り広げ、セリエAの優勝をあらわす「スクデット」を獲得します。
【ヴィアッリ】は「サンプドリア」時代に3度、得点王になっています。
1988-1989年シーズンの「コッパ・イタリア」、1989-1990年シーズンの「カップウィナーズカップ」、1990-1991年シーズンの「セリエA」です。
そのすべてで優勝しており、横にはいつも【マンチーニ】がいました。
これを「ゴールデンコンビ」といわずして何を「ゴールデンコンビ」というのかです。
二人の冒険は翌1991-1992年シーズンに終わりを告げます。
当時は「チャンピオンズリーグ」の前身として「チャンピオンズカップ」がありました。
今の「チャンピオンズリーグ」はリーグ4位のチームも参加できますが、当時は優勝チームのみの狭き門でした。
そんな中「サンプドリア」は初参加でしたが決勝まで駒を進めます。
相手は最強にして最高のチームと言われ、「ドリームチーム」と呼ばれた「バルセロナ」です。
監督は【ハン・クライフ】、主な選手は若き【ジョセップ・グアルディオラ】【ミカエル・ラウドルップ】【フリスト・ストイチコフ】【ロナルド・クーマン】などです。
【ロナルド・クーマン】のフリーキックを決められ1対0で敗れます。
【ヴィアッリ】が残した実績をビッグクラブの「ユベントス」が手をこまねいて見ているわけもなく、当時世界最高額の移籍金で移籍します。
補足しますと、この移籍によって【マンチーニ】との友情にヒビが入ることはありません。
【プラティニ】【ライカールト】【グアルディオラ】【ミカエル・ラウドルップ】【ストイチコフ】に興味のある皆様は下記記事をご覧ください。
ユベントスのチャンピオンズリーグ優勝
【ジャンルカ・ヴィアッリ】はサンプドリアからユベントスへ1992-1993年シーズンに移籍します。
【ロベルト・バッジョ】がファンタジスタとして君臨していた時期です。
加入当時は怪我の影響もあり【ヴィアッリ】は期待した働きは出来ませんでしたが、徐々に本領発揮します。
【ヴィアッリ】加入後の「ユベントス」が獲得したタイトルが雄弁に語っています。
- 1992-1993年 UEFAカップ優勝
- 1994-1995年 セリエA優勝、コッパ・イタリア優勝
- 1995-1996年 チャンピオンズリーグ優勝
まずはUEFAカップ優勝。
現在で言うとチャンピオンズリーグのひとつ下のカテゴリーのヨーロッパの大会です。
本当の意味で「ユベントス」が名門復活するのは1994-1995年シーズンです。
このシーズンは【ヴィアッリ】が本領発揮し始めた大きな転機があります。
監督が「ジョバンニ・トラパットーニ」から「マルチェロ・リッピ」に変わったことです。
どちらもイタリアが誇る名将ですが、当時の「リッピ監督」はまだビッグクラブでの実績はありませんでした。
中堅クラブでコツコツ実績をあげついにつかんだ「ユベントス」の監督ですので、大いなる野望がフツフツと湧き上がっていました。
くしくも1994年アメリカワールドカップで満身創痍になった【ロベルト・バッジョ】が怪我で離脱したタイミングで新たなアイドル(象徴)として【デルピエロ】が台頭します。
特徴的な戦術としてツートップの【ヴィアッリ】【ラバネッリ】の前線からの鬼プレス。
今ではフォワードもディフェンスをするのが当たり前でしたが当時としては画期的でした。
中盤には【コンテ】【ディリービオ】【パウロ・ソウザ】など労を惜しまない選手を並べています。【デシャン】も控えています。
ディフェンスにはゴールキーパー【ペルッツィ】とディフェンスリーダーの【フェッラーラ】が待ち構えています。
他にも隠れた名選手を揃えた「ユベントス」は【プラティニ】以来のセリエAのスクデット(リーグ優勝)を獲得します。
国内カップの「コッパ・イタリア」も獲得し、国内2冠です。
【ヴィアッリ】の印象的なゴールはオーバーヘッドキックです。
キャプテン翼の世界ではよく見ますが現実世界ではめったに見られないシュートです。
【ヴィアッリ】はこのオーバーヘッドキックを得意としていて一度ならず何度も決めます。
技術的なことより「どんな体勢でもゴールを決める意思」が抜きん出ていた証拠です。
仕上げは1995-1996年シーズンのチャンピオンズリーグ優勝です。
【ロベルト・バッジョ】がシーズン前にACミランに移籍することとなりますが、【デルピエロ】がすでに「ファンタジスタ」として存在感を放っていたため穴にはなりません。
この個性的な面々をキャプテンとして束ねたのが【ヴィアッリ】です。
「リッピ監督」と「【ヴィアッリ】キャプテン」に率いられた「ユベントス」は決勝で「アヤックス」と戦います。
当時も今も「アヤックス」ファンの僕はアヤックス目線で決勝戦を朝早起きして見ていました。
ちなみに、当時はWOWOWでチャンピオンズリーグの放映権をもっていましたが、民放のテレビでも決勝戦は生中継していたので、リアルタイムで見ていた皆様もいたかと思います。
先制点はユベントスの【ラバネッリ】が前半13分に決めます。
アヤックスは前半41分【リトマネン】の得点で同点に追いつきます。
その後一進一退の展開が続いて延長戦でも決着がつかずPK戦までもつれ込み、ユベントスが【プラティニ】以来2回目のチャンピオンズリーグ優勝を果たします。
キャプテン【ヴィアッリ】がビッグイヤーをかかげた姿は、「ファンファール監督」が作り上げたアヤックス黄金期の終焉を示唆したため記憶に残っています。
敵ながらアッパレと思ったのも事実です。
【デルピエロ】【デシャン】【リトマネン】に興味のある皆様は下記記事をご覧ください。
Embed from Getty Imagesチェルシー復活の立役者
【ジャンルカ・ヴィアッリ】はユベントスの成功に満足せず新たな冒険に旅立ちます。
イングランドの「チェルシー」への移籍です。
当時は「アブラモビッチ」がオーナーになる前ですので「チェルシー」は中堅チームでした。
【ヴィアッリ】が加入したのは1996-1997年シーズンですが、その前の6シーズンは10位以下でした。
同じ年に【ジャンフランコ・ゾラ】と【ロベルト・ディ・マッテオ】のイタリア人も加入しているため、イタリア色を強めていました。
イタリア人はセリエA以外のリーグに移籍することは少なかったのですが、チェルシーが一気に3人獲得したのでびっくりした記憶があります。
ボスマン判決による実質的な外国人枠撤廃とも無関係ではありません。
この時期からヨーロッパリーグの盟主がイタリアからイングランドやスペインに移行したのかも知れません。
話は戻りますが、【ヴィアッリ】加入後の「チェルシー」は徐々に順位をあげます。
6位、4位、3位です。
「マンチェスター・ユナイテッド」と「アーセナル」が圧倒的2強時代でしたので、3位は上々の成績です。
カップ戦では3つのタイトルを【ヴィアッリ】は獲得しています。
加入したシーズンの1996-1997年にいきなり国内カップ戦で最も伝統のある「FAカップ」を獲得します。
翌1997-1998年シーズンはもう一つの国内カップとヨーロッパのカップ戦王者が集まる「カップウィナーズカップ」を獲得します。
【ジャンフランコ・ゾラ】に興味のある皆様は下記記事をご覧ください。
Embed from Getty Imagesまとめ
いかがでしたでしょうか。
【ジャンルカ・ヴィアッリ】はいついかなる時も全力で走り続けました。
その様子を一言で表すには「不撓不屈の精神」です。
1994年「貴乃花」が横綱に昇進する時に口上したこの言葉は、「どんな困難にも負けず、挫折しないで立ち向かうこと。 諦めないで困難を乗り越える」という意味があります。
現役引退後、膵臓癌に侵されますが病魔と「不撓不屈の精神」で戦います。
当時イタリア代表のコーディネーターを努めていましたが、治療のためにチームを離れることとなります。
ユーロ2020がコロナの影響で2021年に行われるのですが【ヴィアッリ】も合流します。
盟友【ロベルト・マンチーニ】が率いるイタリア代表はユーロ2020を優勝で飾るのですが、最後に【ヴィアッリ】のおちゃめな部分で締めたいと思います。
大会初戦のトルコ戦の後、バスでホテルに向かうのですが【ヴィアッリ】が取り残されてしまいます。
バスの運転手があわてて急ブレーキを踏むと「待て待て待てぃ」と狩野英孝さんばりのツッコミが入ったとか入らないとか。
逆にそれを利用し、2戦目以降も繰り返し天丼になります。
どれだけチームに愛されていたかわかるエピソードです。
優勝後に【マンチーニ】と号泣しながらハグしたのはいうまでもありません。
ご冥福をお祈りします。
【ジャンルカ・ヴィアッリ】の魅力がうまく語れたかはわかりませんが、なつかしさや興味がわいた皆様は、実際のプレーをみていただければ幸いです。
次回予告
次回は【オリバー・カーン】です。
お楽しみにしてください、またね。
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